とくに出典の記述のない記事は、「ハンブルガー・アーベントブラット」紙 www.abendblatt.de
からの引用です。


《クラウス・テンシュテット死去》 98年1月13日

 かつてのロンドン・フィルの指揮者で、「ニューヨーク・タイムズ」では2回「コンダクター・オブ・ザ・イヤー」に選ばれたクラウス・テンシュテット氏が12日月曜日、北ドイツのキールの自宅で亡くなった。71歳だった。

 彼は自分のキャリアをドイツではややアウトサイダー的に作ってきた指揮者で、特別なカリスマ性を持った指揮者であった。
 1926年に旧東ドイツのオーケストラのヴァイオリニストの息子としてうまれた彼は、1948年にハレで、コンサートマイスターとして出発した。しかしわずか3年後に指の骨瘤(こつりゅう、外骨症)のためにヴァイオリニストとしての活動を断念することを余儀なくされた。しかしもちろん彼の音楽的活動全てを駄目にするものではなく、10年の間に彼は指揮を独学で学び、ドレスデンのオペラ座の指揮者になるまでに成長した。

 レパートリーの点では古典とロマン派のものの上に彼の重点が置かれていた。彼はオーケストラに強いエネルギーを与え、音楽を表現する炎を燃え立たせるカペルマイスターたらんとし、そのエネルギーは彼の解釈に高い表現の自発性を与えていた。まさにエスプレッシーボな音楽家の最たるものであった。

 1971年にテンシュテットは西側に移る。そしてキールのオペラハウスの音楽監督として新しい道を歩み始めた。1974年にはトロント・シンフォニー・オーケストラの指揮者になり、たちまち「タイムズ」紙に「アメリカでもっとも客演の声がかかる指揮者」といわしめるほどの国際的な名声を得た。
 1979から81年まで2年間のインテルメッツォをハンブルクの北ドイツ放送交響楽団で過ごした後、テンシュテットはロンドン・フィルハーモニー・オーケストラの第一客演指揮者になり、さらに83年にはサー・ショルティの後任として音楽監督となった。

 ロンドンではグスタフ・マーラーとアントン・ブルックナーがテンシュテットのお気に入りであった。ロンドン・フィルと共演したマーラーの交響曲第5番は、マーラー協会から1979年のもっとも優れたマーラー解釈と賞された。
 1983年にはニューヨークのメトでベートーヴェンの「フィデリオ」を振り、大きな成功を収め、ボストン、クリーヴランド、フィラデルフィア、シカゴなどでも名を成した。
 ドイツでもとうとう、カラヤンの承認のもとに -これは極めて異例なことであった-ベルリン・フィルとのレコード録音を行うに至った。
 
 これほどの輝かしい経歴を歩んできたテンシュテットだったが、突然1987年に重いガンのためにそれを閉じることになってしまった。それ以来彼が名誉指揮者、客演指揮者としてあえて指揮台に立つことがあると、音楽家達は彼を深く愛し、ともに感動を分かち合った。なぜなら、いつもそれが最後になるかも知れないという張りつめた思いがあったからであった。
 1994年彼はキールの文化勲章を授与され、またオックスフォード大学から名誉博士号を贈られた。

 テンシュテットは晩年、マーラーをもっとも振りたい作曲家とし、こう語ったそうだ。

「マーラーを振りたいものは何か大きいものを飲み込むように全力で奮闘しなければならない。
そうしなければ彼を理解など出来はしないだろう」


著者 Cantano