とくに出典の記述のない記事は、「ハンブルガー・アーベントブラット」紙 www.abendblatt.de からの引用です。


ドイチェ・グラモフォン創立100周年> - Vol.1

 今回は今年ちょうど創立100周年を迎えた、現在ハンブルクに本社を置くドイチェ・グラモフォンの紹介をしたいと思います。あの黄色いレーヴェルで世界的に知られ、クラシック・レコードのシンボル的存在であるこの会社の、過去と現在をたどってみたいと思います。

 前世紀の後半に録音の技術を発見したのは、ハノーファー出身のエミール・ベルリーナーという人物でした。「ベルリーナー」(ベルリン市民という意)とは言ってもハノーファラーナーです。
 当時どんなに周りから馬鹿にされ、野生のロバの鳴き声にまでたとえられても、ベルリーナーは、自分の発見した技術とアイデアが将来大きな商業的価値を獲得するだろうと確信していました。
 
蓄音機(Das Grammophon)、レコード、マイクロフォンを発見した彼には、それらの揚げ足取りは全く気にならならず、彼にとってその技術は永遠性との会話であり、またそれは音楽の楽しみを瞬間から記録へ移し変えることを可能にしたのでした。
 ベルリーナーはすでに1887年に彼のアイデアをアメリカで発表し、市場を開拓していましたが、1887年には自分の故郷ハノーファーに、自分の弟ヨーゼフとともに第二の会社を設立します。その名前も「ドイツ蓄音機 有限責任会社」とまあ日本語で言うと格好悪いですが、「ドイチェ・グラモフォンGmbH」です。
 その初期の録音は管楽器のものであったり、ピアノ伴奏付き歌曲であったといいます。時代的には各地に完全な編成のシンフォニー・オーケストラが作られ始めた時期で、それらの演奏を録音することが、その新しい技術をさらに発展させたのです。

 しかし初期の録音を聞きたい人はそのお金に足して、どっさりとシェラック(レコードの材料)を手にすることになるでしょう。たった5分間の録音しかできなかったレコード一枚が300グラムもあったというのですから驚きです。現代のものはその約半分です。1908年に売り出された「カルメン」の抜粋盤はなんと、6キロ!もあったそうです。 昔、シンガー・ソングラライターのさだまさしが10周年記念か何かの10枚組メモリアル盤を「音の出る漬け物石」などと自分で言って笑っていましたが、これならさしずめ「音の出る庭石」ですね。

 さて、意気揚々と出発したドイチェ・グラモフォンですが、第一次世界大戦中に問題が生じます。ロンドンにあった施設と資産がドイツに戻ってこず、結局分離することになってしまったのです。それが後のEMIになったのです。
 その頃二人の偉大な声楽家が、ベルリーナーのドイチェ・グラモフォンをメディアとして確立させました。ロシア人の歌手シャリアピンと、イタリア人テノール、エンリコ・カルーゾーです。
 カルーゾーはミラノのあるホテルで10曲のアリアを録音しましたが、その録音を担当したフレッド・ガイスベルクに対してロンドンの本部はカルーゾーに100ポンドの報酬!? そんな途方もないものは払えるもんか!と拒否してきたといいます。しかし頑固なガイスベルクはそのプロジェクトを続行し、とうとうやり抜いてしまうのです。しかしその録音は結局、数カ月のうちに1万3000ポンドの売り上げを記録し、今日まで消えることのない伝説を作ったのでした。

 20年代にはドイチェ・グラモフォンは黄金期を迎えます。1928年にはベルリーナーのレコード製造機から550万枚のレコードがプレスされたのです。しかしいつの世も栄枯盛衰。30年代になると会社の利益はどんどん減り続け、しまいには1937年に破産してしまいます。
 そんな苦しい時代でも唯一売れるジャンルがありました。「マーチ」。戦争への道をまっしぐらに進んでしまうドイツを象徴しています。破産申請をしたドイチェ・グラモフォンを経済的に支援したのはドイチェ・バンクで、ドイチェ・グラモフォンはその年に新しい会社として生まれ変わったのでした。
 1938年には当時アーヘンの音楽監督だったカラヤンが、初めてのレコード契約を結びました。ナチスが力を付けてきた時代で、ナチスからドイチェ・グラモフォンへ正式に、メンデルゾーンのヴァイオリン協奏曲と「夏の夜の夢」の音楽を消却するよう指示が来ました。さらに42年にはゲシュタポ(秘密国家警察)が全てのユダヤ人演奏家の演奏を録音することを禁じます。

 次回は戦後の再建と、発展について。

つづく

著者 Cantano