とくに出典の記述のない記事は、「ハンブルガー・アーベントブラット」紙 www.abendblatt.de からの引用です。

シュニットケ 死去

 現代で最も影響の大きかった作曲家の一人  ハンブルガー・アーベントブラット8月4日

 作曲家のアルフレート・シュニットケが、8月3日ドイツ・ハンブルクの病院で亡くなった。64歳。遺体は故人の希望でロシアに葬られる。

 シュニットケは1934年、当時のヴォルガ・ドイツ共和国の首都、エンゲルス(現在は中央ロシアのSaratow)で生まれた。彼の母はそこでドイツ語の教師をしており、父はフランクフルト/マイン出身のユダヤ人で、翻訳と記者をしていた。

 1946年シュニットケの音楽教育がウィーンで始まった。そこでは父が進駐ソヴィエトの新聞で働いていた。1948年からはモスクワに居を移し、まず合唱指揮者としての教育を受け、その後モスクワのコンセルヴァトワールで作曲、対位法、楽器法を学んだ(1953-1958)。後の1962から1972年にはそこで楽器法の教鞭をとった。

 まだソヴィエト連邦の時代に、ウェーベルンの教え子であったHerschowitschに影響されたと言われるが、決定的な影響は1963年のルイジ・ノーノとの出会いであろう。彼が芸術的に近いものを感じていたのは、シュトックハウゼン、リゲティ、プッソールであった。1990年にドイツの国籍を取得したシュニットケは、リゲティと同じハンブルクに定住し、創作活動と、1994年まで音楽大学での後進の指導に励んだ。

 ハンブルクで彼はピアニストであるイリーナ・カタイェーヴァと二度目の結婚をし、またユダヤ教からカトリックへ改宗した。ハンブルクでは、ジョン・ノイマイヤー率いる国立歌劇場のバレエ団のために「ペール・ギュント」を書き(1989年)、1995年には彼のふたつ目の、そして最後のオペラである「ファウスト博士」が初演された。
 しかしこの作品は彼の度重なる心臓発作のために、非常に苦労して完成されなければならなかった。そして歴代の大作曲家を覆うあの伝説的運命、「9つのシンフォニーの完成後の死」から、シュニットケも逃れることが出来なかった。それはつい最近モスクワで初演されたのだ。1999年にはハンブルクで初演が予定されている。

 ふたつのヴァイオリン、室内オーケストラ、弦の間に消しゴムを挟んだコンティヌオ・ピアノ。この彼の1977年に作曲されたコンチェルト・グロッソが若きシュニットケを一躍有名にさせた。そのヴァイオリニストであったギドン・クレーメルは、レーニングラードでの初演の後、その作品を持って各地のホールを回り、現代音楽が理解されがたいものという聴衆の偏見と戦い、長い間その説得に努めた。

 シュニットケは「多様様式Polystilistik」と名付けられた、いろいろな様式を同時に、対比させて使う技法を用いた。そこでは他の作曲家の作品からの引用が大きな意味を持っていた。彼の1981年に作曲された交響曲第3番には、過去1000年の音楽史における30人の作曲家からの引用に満たされた「ミクロコスモス」が見られる。
 ここでは時間が、空間となるのだ。


著者 Cantano