とくに出典の記述のない記事は、「ハンブルガー・アーベントブラット」紙 www.abendblatt.de からの引用です。

ヘルマン・プライ死去
   ハンブルガー・アーベントブラット7月24日

 ドイツ各紙で一斉にトップで報道された、現代でもっとも活躍したバリトン宮廷歌手、ヘルマン・プライ氏の死のニュースは、多くの人に深い悲しみをもたらした。

 プライ氏は心臓発作を起こし、その後の回復が思わしくなく、22日水曜日の遅くオーバーバイエルンのクライリングで亡くなった。69歳だった。プライ氏は40年以上にわたって大きな成功をおさめ、世界中の有名なオペラ座の舞台に立ってきた。彼の数多くのヒット役の中でも、「魔笛」のパパゲーノなどは特に評価が高かった。またシューベルトの歌曲の解釈も高い評価を得ていた。

 プライ氏の叙情的なバリトン、変に作ったところのない愛嬌と、気取るところのない振る舞いは、多くのテレビ番組でもたくさんの視聴者に好感をもって迎えられた。ベルリン生まれのプライ氏は、ヴィースバーデンとハンブルクで活躍した後、ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」のフィガロ役で1955年ウィーンにデビューし、国際的名声を得た。ニューヨークのメトには1960年にワーグナーの「タンホイザー」のヴォルフラムでデビュー、バイロイトの祝祭劇場には1965年に初登場した。

 バイエルン州立歌劇場総支配人アウグスト・エヴァーディング氏。
 「プライ氏は彼の歌ったどの歌曲の中でも、悲しみと、情熱とそして愛を表現した。私たちは体いっぱいにユーモアを持った、「人間」を表現する人物を失った。彼は劇場の中で生きて、劇場と共に生きていた。

 かつてプライ氏はこう語った。「アリアはだれでも大声で歌うこと(bruellen)ができる。私に興味があるのはレチタティーボさ、そこには何か隠されているだろ、違うかい?
 「バリトンはというものは(テノールより)繊細な方法で聴衆を説得しなければならない。その暗めの声色と、品の良い表現、的を得た見解で、自分自身と自分の隣人に心地よい印象を与えなくてはいけない。それは怒鳴ってしまったら、すぐに無くしてしまうものだ。

 フィッシャー=ディースカウと並んで、戦後のもっとも有名で、愛されたバリトンであるプライは、とくにすぐれた声楽的資質と、解釈の多様性を持っていた。40年を越す彼の国際的キャリアの中で彼が何を歌おうと、そこには彼のまっすぐで、地に根をおろした自然さがあった。彼はオラトリオ歌手としても、シューベルト歌いとしてと同様輝いており、1960年にはハンス・ヴェルナー・ヘンツェによって「ホンブルクの王子」が彼の声のために作曲された。
 このベルリン出身の歌手は「マイ・ウェイ」を録音したり、テレビにでたり、はたまたバイロイトに出演したりしたので、あるベルリンの新聞は当時彼を「ヘルマン機関車すべての路地を Hermann-Dampf-in-allen-Gassen」と評したが、もちろんそれは愛称以外の嫌みでも何でもなかった。

 彼は単なる演奏者としての役割には満足せず、1976年にホーエネムスにシューベルト音楽祭を設立、そのすぐ後にはウィーンと、ニューヨークにシューベルティアーデが加わった。彼はさらに彼のテレビ界における人気を利用して、歌謡曲的なプログラムを通して、もっと扱いにくい、センシティヴな古典芸術歌曲の世界へ聴衆を導いた。例えばシューベルトの「冬の旅」には、彼は繰り返し新しいアイデアをもって臨み、繰り返しそれと格闘した。
 1982年からはハンブルク音楽大学で、声楽と歌曲解釈を教え、1988にはザルツブルク音楽祭で「フィガロ」の演出を初めて担当した。
 
 円熟の年代に入ってからは、彼の歌曲のリサイタルには長い経験からくる、落ちついた充実が見られた。しかし長い間彼の声には叙情性と若さが保たれ、格調高くそれらと共に年を取っていった。

 「私は限界に達したときに常に本能的なものによって守られていた。それによって私がどこまでできるのかをいつも感じていた。それはたぶん私の人生の最も大きな才能であっただろう。
とかつてプライ氏は自分の人生をかえりみて語った。


著者 Cantano