とくに出典の記述のない記事は、「ハンブルガー・アーベントブラット」紙 www.abendblatt.de からの引用です。

【ショルティ死去】


 また巨匠が一人去った。ドイツには「有名人は3人続けて亡くなる」という縁起でもないことわざがあるそうだが、ヴェルサーチ、ダイアナ、リヒテルと3人で止まらず、マザーテレサ、そしてこのマエストロまで奪っていってしまった。もっとも84歳。やるだけのことはやったような人生だったのではないだろうか。


 ハンブルガー・アーベントブラット9月8日

 彼の芸術的遺産は聞くこともできるし、見ることもできる! サー・ゲオルグ・ショルティほど何回もグラミー賞を受賞した指揮者はいない。29回も彼の名前はこの音楽のオスカーのリストにあがった。さらに14回のGrand Prixs du Disqueと250のレコード製作が数えられる。そのうち150はシカゴ響との仕事であり、そのオーケストラを彼は1000回指揮した。彼は50年の長きにわたって、終身契約を結んでいたレコード会社デッカに忠誠を尽くした。
 5日金曜の夜、ハンガリー出身のマエストロは休暇に訪れていたフランスで眠りのうちに84歳の生涯を閉じた。

 偉大な指揮台のマエストロたちの世代の最後の人であったショルティが、戦争の後ほぼ40の時に指揮者としてのキャリアをスタートしたというのは印象的なことである。彼はブダペストのユダヤ人の家系の出身で、コダーイ、エルンスト・フォン・ドホナーニ、バルトークの弟子としてピアニストとしての将来を約束されており、すでに1937年にザルツブルク音楽祭でトスカニーニのアシスタントを努めた。しかし、あの戦争とナチスが全てのものに終わりをもたらした。 ショルティは迫害から逃れてスイスへ移る。しかしその国でも労働許可を与えられなかった。チューリッヒでとにかくも生き延びた彼は、はじめて結婚し、ピアニストとコレペティトールとして生計を立てた。

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 彼が働いたところには伝説がある。1961年までの10年フランクフルトの音楽監督、オペラ監督として、さらに10年間コヴェント・ガーデンで。そのロンドンでは初めて「指揮棒をもった独裁者」「Bruellender Schaedel(何て訳すべき?)」といったあだ名を奉られた。しかし最後にはエリザベス女王によって貴族(Sir)に賞される栄誉を得る。『私はそこを改革したかったのだ、プロシア人のようにね・・・このユダヤ系ハンガリー人がまるでプロシア人のように記されるなんて、本当におかしいことだ。』彼はコヴェント・ガーデンを再び国際的なハウスに押し上げた。

 1970年から1991年までのシカゴ交響楽団の首席指揮者の時代には、彼はそのオーケストラをアメリカのオーケストラ文化の典型と言われるものに作り上げた。

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 ショルティいわく、『私は「音楽」の専門家である。』
しかしなかでも、彼のワーナー、シュトラウス、ハイドン、モーツァルトそしてマーラーは有名である。彼はカラヤンが死去したときその葬儀に際して指揮をし、またカラヤンの跡を継いでザルツブルク音楽祭の音楽監督となった。彼が68歳にしてようやくウィーン国立歌劇場にデビューし、そしてその3年後にバイロイトに招聘されたのは、それらの団体の伝統と慣習を考えると単に奇異に思える。

 彼の歳をとってからの判断によれば『歳をとればとるほど、私は音楽の中に難しさを見いだす、それは技術的なことではなく、解釈に関することだ。音楽に対する自分の欲求は歳とともに増大し、歳は音楽に対する要求と趣味を成長させる』。

 この12日には彼はロンドンでヴェルディのレクイエムを振る予定だった。最後の演奏になったのは7月のコヴェント・ガーデンでの「シモン・ボッカネグラ」であった。

著者 Cantano