とくに出典の記述のない記事は、「ハンブルガー・アーベントブラット」紙 www.abendblatt.de からの引用です。


《リヒテルの葬儀》  8月4日

 『彼は数十年にわたって百万人以上の聴衆を魅了してきた』- とロシアの大統領ボリス・イェリツィンはリヒテルの死に際し、未亡人に電報を打った。

 リヒテル氏は今日、モスクワの新聖母修道院にある名士の墓に埋葬される。そこにはリヒテル氏が親交を持っていた作曲家セルゲイ・プロコフィエフ(1953年没)も眠っている。

 8月1日金曜日に死去したリヒテル氏の告別式はモスクワのプーシキン博物館で催され、その後市内の教会で葬儀が行われる。



《スヴィアトスラフ・リヒテル氏死去》
 8月2日

 ドイツ系ウクライナ人のピアニスト、スヴャトスラフ・リヒテルが昨日心臓発作のためモスクワの自宅で亡くなった。82歳だった。

 「作品に忠実であること」 - すでに言い古された表現だが、リヒテル氏はかつて次のように定義したことがある。『作曲家の考え、心、飾り気のない真実といったものはいつも感じられるように残しておかなければならない。』 照明を暗く落としたホールで、ピアノの側にランプを置き、楽譜を見ながら(『私はもうそんなにたくさん覚えていられないよ』)演奏する彼を聞いたものは誰でも、その誠実さ、迫真性、そして彼自身の信念を感じさせる説得力を感じたであろう。

 エミール・ギレルスやラドゥー・ルプが指示したあの有名なハインリッヒ・ノイハウスは、22歳のリヒテルをモスクワ音楽院の大学院に受け入れた。ノイハウスはすぐに教えることがなくなったことに気付き『今までに私が知っているピアニストの中で、あれほどの芸術的水準を持った人間を知らない』と言った。また、ギレルスが50年代にアメリカで彗星のごとくデビューしたときも、ただ『ちょっと待ちなさい。あなたがリヒテルを聞くまで。』と語ったという。

 父がドイツの家系であるリヒテルが当時西側へ演奏旅行に出るのは大変難しいことであった。彼の友人であるオイストラフや、ロストロポーヴィチ、そしてギレルスが後の文部大臣を説得して、ようやくリヒテルは1960年にフィンランドで3回の演奏会を開くことが出来た。そして半年後のカーネギーホールでの演奏会で、彼は一躍世界的に有名になり、すぐにルービンシュタインやホロヴィッツ、アラウ、ゼルキン、そしてケンプフといった「鍵盤の巨匠」に数えられるようになった。

 リヒテルは言う『たいていは私は直感と、心の赴くままに弾きます。私は、何か自分を魅了する音楽を聴き、それを習得するだけなんです。ほとんどの作曲家において私は魅了されましたが、モーツァルトと向き合うようになれるまでは長い時間を要しました - ハイドンや、バッハは自分の庭だったんですが。 ショパンは私の音楽への愛を解き放ちました。かつて私の父がノクターンの5番を弾くのを聞いて、私は深く感動して、決心したんです。音楽家になろうと。』

 彼は大都市の大きなコンサートホールや、大規模な音楽祭で演奏する一方で、小さなホールや、居心地の良い部屋で弾くことを好んだ。彼は自分の演奏の中においてすさまじいフォルティッシモから繊細なピアニッシモまでのレジスターを固定しなかったのと同様に、演奏曲目もまた事前に告知しなかった。彼はベートーヴェンのはずのプログラムに替えてグリークを弾き、聴衆を驚かせたこともある。

 リヒテル氏は情が厚く、礼節をわきまえた人で、1986年にはチェルノブイリ原発事故の犠牲者のためにチャリティーコンサートを行った。また、シュレースヴィヒ・ホルシュタイン州(ハンブルクの上のドイツ最北の州)音楽祭のときに体が衰弱し、ハンブルク郊外の病院にかつぎ込まれたことがあったが、彼は一年後に、その時の看病に対して感謝の意を示すべくやってきて、「自分の」病棟で私的な演奏会を行ったこともあった。


著者 Cantano