第3回

Hamburgハンブルク 〜 街と音楽 3

 こんにちは。日本はもうすっかり暖かいんでしょうね。こちらもだんだん天気が良くなって、暖かい日が多くなりました。日本の桜よりちょっと色の濃いこちらの桜もしだいに咲き出しています。
 前回はアルスター湖まで行って昼食をとりました。
では、今日はまず初めにスタインウェイ・ハウスのほうへ歩いていってみましょう。

 コロナーデンという通りにはいると、ハンブルク・スタインウェイがあります。

Steinway Haus


ドイツ人のハインリッヒ・エンゲルハルト・シュタインヴェーグSteinweg (1797-1871後に英語風にスタインウェイと改名)がニューヨークに渡ってピアノ製作会社を作ったのが1853年。その長男が1880年に出した支店がこれ。楽器売場と書籍、楽譜・CD売場からなっています。よく日本から観光に来られた方が、知人から頼まれた楽譜やCDを買い求めに訪れているのを見かけますが、それほどマイナーなものまでまんべんなく取り揃えているわけではないので、あまり期待しない方がいいかも。もっともあれば、日本より安く買えますけどね。


Steinway社のホームページ






では、ハンブルク州立歌劇場へ回ってみましょう。おっと、これを見て下さい。
この歌劇場で7年間の長きにわたって指揮棒を振ったグスタフ・マーラーの名を持つ一角です。

Gustav-Mahler-Platz


 マーラーがいた頃のハンブルクは、ウィーンに次ぐドイツ語圏最大の音楽都市でした。日本でも有名な指揮者ハンス・フォン・ビューローとマーラーという二人の偉大な音楽がいたからです。もちろんその背景には絶大な町の経済力があったのは言うまでもありません。

以下、少し長くなりますが、この時代の歌劇場について以前に調べたことがあるので、その資料を引用して皆さんに送ります。






名付けて、


《『今に私の時代が来る!』炎の音楽家マーラー ハンブルクでの足跡》

 ブラームスの死去する10年前、指揮者ビューロー(1830-1894)はハンブルクへやってきて定住した。彼は歴史上初めての職業指揮者(それまでは指揮だけで「食っていた」人はいなかった!)としてワーグナーの作品を初演したりするなど、はじめはワーグナーの世界に強く引かれたものの、後年はブラームス派に転身してその作品の普及に努めた。ビューローの妻コジマ(リストの娘)をめぐるワーグナーとの確執は有名。
 古典に通じ、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスを称して「3大B」と名付けたビューローは、グスタフ・マーラー(1860-1911)の指揮には高い評価を与えつつも、その作品は決して認めようとはしなかった。そのマーラーは1891年、前任地のブダペストから、ハンブルク歌劇場の支配人ポリーニに引き抜かれてやってきた。彼はハンブルクに到着したその日に、妹のユスティーネに次のように書き送っています
 ─『この街がどんなに美しく活気に満ちているかは想像を絶するものです。』

  マーラーは着任早々、念願だったワーグナー作品の上演に精力をつぎ込み、病気のビューローに代わって予約定期演奏会「ビューロー・コンサート」の代理を努めたりしている。敏腕で鳴らすポリーニは徹底した合理化と営利的運営で一流の歌手を集め、ハンブルク歌劇場はマーラーという優秀な指揮者を得て空前の盛況となった。ちなみに1895年の9月から翌年の5月までに、マーラーがオペラを指揮した回数はなんと138回にのぼります。筆者の叫び--想像できますか、ふつうこんなこと! 一年間じゃないですよ、9カ月間ですからねぇ。)

 1891年にはチャイコフスキーが自作のオペラ「エフゲニ・オネーギン」のドイツ初演の指揮をするためにハンブルクを訪れています。結局彼はいろいろなトラブルのために指揮棒を投げてしまうのですが、代わりに棒を振ったマーラーを「天才」と呼んで激賛し、二人は友情で結ばれたといいます。
 我々の世紀にマーラーのシンフォニーの普及に貢献し、『必ず私の時代が来る』というマーラーの予言の実現に貢献した指揮者、ブルーノ・ヴァルター(本名シュレージンガー)は1894年ハンブルク歌劇場を訪れ、マーラーと会いました。彼等は共にユダヤ人で共鳴するものがあったのかすぐに親しくなり、ヴァルターはマーラーが当時住んでいたホーエルフトブリュッケのそばのビスマルク通り86番地の大きな2階建ての家に家族同様に出入りしていました。彼は同年9月に合唱指揮者として採用されています。

 相変わらず指揮活動に忙しかったマーラーですが(作曲活動は夏にまとめて行った)、1896年から次第にポリーニとの仲がうまく行かなくなります。そしてマーラーの「恋愛事件」をきっかけにそれは決定的になり、彼は「南の国からの知らせ」、つまりヴィーンへの転出を真剣に考えるようになったのです。その恋愛事件とは? 新しく採用された23歳のドラマティック・ソプラノのアンナ・フォン・ミルデンブルクにマーラーが激しく恋をしてしまったのです。これに妹ユスティーネの嫉妬も(文末に挙げた参考文献には「嫉妬」とあるんですが、兄弟なのに「嫉妬」するんでかね?、それとも・・・!?)絡んで音楽会の大スキャンダルになりました。

 マーラーはかつてブラームスのところへ日参しヴィーンへの進出の援助を頼んでおり、彼はヴィーンからの便りをなかば病気のように待ちわびていたといいいます。だがヴィーンの音楽界はあのコジマ・ワーグナーが牛耳っており、反ユダヤ主義を掲げており、マーラーにとっては大きな障壁でした。ところがマーラーは驚いたことに突然カトリックに改宗し、この難題を取り払ったのでありました。(ただし後に妻となったアルマ・マーラーは、彼の死後、彼のカトリック信仰が心からのものであったと強調している)1897年マーラーは7年間のハンブルク滞在を、最後のコンサート「英雄」と「フィデリオ」で締めくくり、ヴィーンへと旅立った(ちなみにマーラーの恋の相手ミルデンブルクも、そのあとを追うようにヴィーン宮廷歌劇場へ移籍した)。 その後どうなったのか私は知りません。マーラーに詳しい方、教えてください。

Staatsoper


 では、国立歌劇場をご覧下さい。どうぞ。

 え?、小さいですって? はあ、外見はそうでしょうな。たしかに、これが歌劇場ですよっていわれないとわからないような建物だし。ドイツ3大オペラのなかで、いちばん「見たくれは悪い」かも。市の当局者もそう思っているらしく、つい先日新聞紙上に大規模な改築計画案を発表していました。

 じゃ、今度は中を。見れるのって? もちろんですよ。守衛さんに今頼んできますから。- でも、この間の交渉は省略 - 

Staatsoper 内部






 このハンブルク州立歌劇場は、ゲンゼマルクト(ここの住所名、「鵞鳥市場」の意)・テアターとして、300年以上前にスタートしました。1678年のことです。ヨーロッパの話しはいつも「何百年古い・・・」という文句から始まるので、辟易してらっしゃる人が多いかもしれませんが、この年号は重要で、オペラの社会史に興味のある方ならハンブルクは忘れてはならないところです。というのは、このゲンゼマルクト・オペラは「ドイツで初めての公開の市立歌劇場」なのです。つまり、宮廷からオペラを市民の手に移すきっかけとなった場所というわけです。
 記念すべきこけら落としは、ヨーハン・タイレ作曲の宗教的オペラ「アダムとイヴ」でした。代表的な作曲家には、ラインハルト・カイザー、地元出身のヨーハン・アードルフ・ハッセ、マッテゾン、この時期ドイツで最も人気のあったテーレマンがおり、そしてヘンデル(ドイツ音楽情報ページにハンブルク州立図書館蔵の写真あり)も若い頃ハンブルク滞在中にこの劇場で作品を発表しています。カール・フィリップ・エマヌエル・バッハは18世紀後半のハンブルクを代表する音楽家ですが、オペラは書いていません。


 それでは「鵞鳥広場」から地下鉄に乗って、ムジークハレへまいりましょう。

Musikhalle


 ハンブルクを代表する音楽ホール「Musikhalleムジークハレ」は大ホール(客席数2000)、小ホール(同640)からなり、戦争の被害を受けなかったことから、ハンブルクでは貴重な建物に数えられます。このムジークハレの前の広場はカール・ムック・プラッツ※という名前があったのですが、4月3日のブラームス没後100年の日からヨハネス・ブラームス・プラッツに変わりました。

この計画はしかし、ブラームスは本当にハンブルクに見捨てられたのか、実際は逆だったのではないかといった新説の登場もあって、大変もめました。

※Karl Muck (1859-1940)ピアニスト、指揮者。プラハ歌劇場、コヴェント・ガーデン、ボストン響などの指揮者を歴任し、パルジファルを初演するなど、ワーグナーの指揮者として大きな名声があった。1922-33年にハンブルクのフィルハーモニーの指揮者をつとめたのを最後に引退。

Johannes Brahms Platz




 そのブラームスですが、前回お知らせしたとおり4月3日が没後100年の命日。
この週末はブラームス・デイと称して、ムジークハレや聖ミヒャエリス教会でNDR(北ドイツ放送響&合唱団)、各主教会のカントールとその合唱団たちなどによってブラームスの曲ばかりの連続コンサートが開かれました。なんと無料です。このあたりはさすがですね、ドイツは。

 ブラームスはお好きですか? 僕は個人的にとても好きですねエ。
しかも、ドイツ人による演奏が好きです。良く言えば「落ちつきのある」、悪く言えば「重い」その演奏が、ブラームスを聞くときにはなぜか自分に合う気がするんです。交響曲から、ピアノ曲から、ドイツ・レクイエムから、そして歌曲から彼の人柄が伝わってくるようです。

 そのブラームスの家は、ここから南へ、港の方へ歩いて10分くらいの所にあります。通りの名前はペーター・シュトラーセ。この通りだけ前世紀の街並みを出来るだけ再現してあります。通りに入る前に一目だけ、ハンブルク歴史博物館を。ペーター通りの向かいにあります。中には、ブクステフーデの唯一の肖像画といわれる貴重な絵や、チェンバロを初めとする古楽器など音楽家の目を引きつける物が多くあります。

Theile, Reinken und Buxtehude


 ハンブルク歴史博物館所蔵のハンブルク・バロックを代表する音楽家の絵。
左から、タイレ、ラインケン、そしてブクステフーデ。3人ともこのシリーズの中で触れた人物です。ちなみにこの時代の絵に、黒人を描くのはひとつの流行だったそうです。







Brahms Geburtshaus










 ではペーター通りに入ってみましょう。
なんだかふる〜い街へ来たような気がするはずです。
昔はこの辺は貧しい人たちのアパートが建ち並んでいました。
写真は、戦前まで残っていたブラームスの生家。


Brahms Gedenkstaette

ブラームス記念館
Brahms-Gedenkstaette
住所:   Peterstrasse 39
交通:   U 3番 St.Pauli 駅下車
開館時間: 火曜と木曜日 10:00-13:00
開館時間は変わることがあります。
Tel: (040)344688・346229





 ブラームス記念館には、特に貴重な自筆譜などの類はないものの(本物は個人のコレクションであるため)、彼の手紙や豊富な写真などが展示してあり、ファンにはたまらないところでしょう。

 先に断っておきますが、ぼくに「その気」はまったくありません。ありませんが、ブラームスはとんでもなく「いい男」です。いえ、「でした」。若い頃の写真はメチャクチャかっこいいです。皆さんご存じでした? 一緒に掛かっているクララ・シューマンもすごくきれいだし、ブラームスがずっと好きだったクララの娘、ユーリエもとってもきれい。う〜ん、ロマン派っていいなあ。それにしても日本の音楽の教科書にはどうして歳をとってからの写真が、仰々しく出ているんでしょうか? はやく亡くなったモーツァルトやシューベルトはいいけど(いや、全然よくない、失礼)、天寿を全うした感のあるブラームスなんてのは、あのきたならしい髭モジャの晩年の顔がよく紹介してあって、その顔しか知らなかったから、若い頃の写真には鮮烈な印象を受けました。
 では、どうぞ。



 はい、皆さん、うっとりしてないで、先行きますよ〜。よろしいですか〜。

 最後は、聖ミヒャエリス教会。「ミッヒェル」の愛称でハンブルク市民に愛されているこの教会は、5つの主教会の中で最も大きく、大規模な編成の曲もしばしば演奏されることから、音楽家にとっても深い意味のある教会です。

Michaeliskirche

 ハンブルクを代表する18世紀末に活躍した詩人クロプシュトックの葬儀はこの教会で行われ、当時の人口13万人のうち、2万5000人が参列したそうです。すでにご紹介したマーラーは、交響曲第2番「復活」を作曲中、第3楽章まで書き上げたところでハンス・フォン・ビューローの死に接し、ミヒャエリスで行われた葬儀の中できいたクロプシュトックの詩「復活」による合唱を聞いていたく感動し、同じ詩による合唱曲を第5楽章に据えることにしたといわれています。

 この教会の内部は、宗教的静寂と威厳にあふれた装飾により、他の主教会とは違って美しく整備されています。ブラームスの洗礼を記念しているものと、エマヌエル・バッハの業績を讃える石板があります。地下には納骨堂があり、エマヌエル・バッハ、マッテゾン(1681-1764。ドイツ・バロックを代表する音楽家、批評家、作曲家)などが眠っています。

 教会の塔にはエレベーターで登ることができ、ハンブルクの街が一望の下に見渡せます。機会があれば、この絵はいつかご紹介しましょう。







 それでは歩き疲れたことと思いますので、港に出て名物「うなぎスープ」でも飲みましょうか? でも、やっぱり日本のうなぎがいいですよね。おっと空腹のあまり忘れてた。クラシックの話しからは飛びますが、ビートルズがデビューした「スタークラブ」はもちろん今はないけど、ここからちょっと歩いたところにあるレーパーバーンに建物は現存します。このあたりの下町の描写はフレデリック・フォーサイスの小説「オデッサ・ファイル」に詳しいので、興味のある方は一読をおすすめします。スリリングでちょっと心臓に悪いけど。

 以上3回に分けてお伝えした、私の(ほとんど勝手な思い入れによる)『街と音楽〜ハンブルク』、とりあえずここで終了します。次回からは、さらに思い入れの濃い(?)お話、レポートを予定しています。どうぞ、ご期待ください。

参考文献
船山 隆 マーラー、カラー版作曲家の生涯、1987年 新潮文庫
山下道子 ディートリッヒ・ブクステフーデ、ルネサンス・バロックの作曲家たち、
ドイツ編、季刊リコーダーより
磯山 雅 マタイ受難曲、1994年、東京書籍 (前回掲載文の中で参考にしました。
これは名著ですので、音楽ファンの方全員にお薦めします。)

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