1797 - 1828




 シューベルトの即興曲D.899(作品90)の第3番、第4番を往年の名手たちの演奏中心に聴き比へてみたく、登場願うのは10人、演奏者の経歴まで紹介しているととんでもないことになるので、ここでは早く生まれた順に紹介していくこととする。ただこれは、私の聴いた感想なので誤解のないように。


 シュナーベルとギーゼキングの第2番、このふたりの演奏はどことなく似ている。少し早目で、過度なテンポの変化などなく、楽譜にはほぼ忠実に、一見特徴はない。アヴェマリアのような、なぐさめのような、思い出のような、どうにでもとれる雰囲気。よくいえば聴き手に創造の余地をのこしてくれる演奏とも言える。必要以上の緊張をあたえず、シューベルト特有のあたたかさで包んでくれる、何度聴いても倦きのこない演奏である。アゴーギク、緩急法、速度法などと訳すが、この使用がみごとなのである。またシュナーベル、彼は決しでヴィルトゥオーゾではなかったが、細部におけるクレッシェンドのしかた、ストレットなどまさに当時のヴィルトゥオーゾのそれと同じである。


 次はロシアの女傑ユージナと伝説のピアニスト ソフロニツキー。ユージナはあきらかにこの4曲をひとつの曲として構成している。3番は、緩序楽章のようにややゆっくりとしたテンポで、アヴェ・マリア、祈りといった感じで、聴衆の心をつかむ術を熟知したうたい方である。しかし左手のf zは劇的すぎる、なにもここまで強くしなくてもと思うのだが、知らず知らずのうちに演奏者と同じように呼吸をし、その音楽の世界にひきずり込まれていく。デムスの演奏では、この部分気持ちが昂揚してストレットしてほしい所がインテンポで、またフレーズの終わりでr i tしてしまい、なかなか音楽に入りこむことができず傍観者の立場になってしまい、そのうち飽きてしまう。シフは、デムスより少しはやいテンポではあるが、終始淡々とこの変化のないアヴェマリアは続く。美しくはあるがこの5分の緊張持続は疲れる。まして4曲、30分なると勘弁してくれ。プレンデルはもうすこしロマンチックであるが、途中であきてしまうことは同じ。ソフロニツキーの演奏は、非常に叙情的、まるでショパンを弾いているかのようで、アヴェマリアというよりコンソレーションといった雰囲気、うっとりとするそのメロディライン、少々甘過ぎる気もする。面白いことにユージナもソフロニツキーもこの3番をG−Durで弾いている。この曲の初版はハスリンガーによって楽譜がよく売れるようにということから、フラット6つのGes-Durではなくシャープ1つのG-Durで出版された。彼らはこの楽譜を使っていたのだろうか、なんともロシアという国は。


 4つの即興曲D.899(op‐90)は、彼の死の前年1827年に作曲されたとされる。その他この年には、D.935(op‐142)の即興曲、ピアノトリオ、そして冬の旅、など傑作が生まれている。そしてなにより特筆せねばならないのは、敬愛してやまなかったベートーヴェンが3月16日に亡くなったことである。この即興曲という名前は出版者のハスリンガーがやはり楽譜の売れ行さを考慮してつけたもので、シューベルトもこの名前に同意したといわれる。曲の内容とは全く関係ない。


D.899が作曲されたのがベートーヴェンの死の前であったのか、後であったのか、かなり重要な問題となってくる。というのは、第1曲c-mollは、あきらかに葬送であり、第2曲Es-Durは明るく始まり終わりはes-mollと暗く終わっている。暗く始まり明るく終わる曲は、以前にもたくさんあるが、この逆ははじめてである。スケルツォ Ges-dur の第3曲は、なぐさめともいえる感じで、パドゥラ・スコダは、この曲にたいしてゲーテの”水の上の霊の歌”を引用している。第4曲は、as-moll ではじまり、ベートーヴェンを思わせる劇的なcis-mollのトリオをはさみ、As-Durで力強くおわる。ちなみにバドゥラ・スコダは、As-Durのリート”水の上にて歌う”のような感じであるといっている。
 このように4曲の配列は、調性においても、また各々の性格においても密接な関係がある。これは私のかってな考えなのだが、シューベルトはこの曲集をベートーヴェンの追悼、または思い出の意味をこめて書いたのではないかと言うことである。この曲集の何曲かは、1827年の7月ごろに書かれたという説もあり今後の研究がまたれる。なお、同じ年に作曲されたD.935の4つの即興曲は、このD.899とはかなり性格が異なる。シューマンによれば、もしかしたら1、2、4番は、同一ソナタの楽章であり、3番はべつの曲ではないかということであるが、ここではくわしくふれない。


 今度は、4番を中心に聴いていきたいと思う。ちなみに4曲全部を録音しているのは、シュナーベル、ギーゼキング、ユージナ、デムス、ブレンデル、シフ、でホロヴィッツは2.3.4、ソフロニツキーは3.4、そしてラフマニノフ、エッガーは4番のみである。

ラフマニノフの4番速い、とにかく速い、しかしロマンチックに、うっとりとしたかわいらしさに満ちあふれたうたには、非常にひきつけられるものがある。また表情のゆたかさにも驚かされる。全体に平和でシューベルトらしいあたたかさに満ちている。
 ホロヴィッツは、独自の世界を作っている。聴いた中では一番遅く、叙情的でつめたく、何かにちゅうちょしながらも苦い頃を回想している風情がある。(今回聴いたのは、72年、85年の録音)中間部は、苦悩とあきらめ、そして悲劇。シフは、このホロヴィッツの演奏にやや近い。テンポ、そしてさみしさにあふれた回想風な雰囲気といい、とてもいい感じなのだが、表現力にとぼしいというか、いまひとつ主張がはっきりしない。たとえば短調から長調に変わる所、ちょっと右手のタッチを強くしてくれれば明るい感じになってもっと曲の輪郭がはっきりしてくるのに、どうも一本調子に流れるきらいがある。

エッガーの演奏もまた面白い,メランコリックな感じではじまり、なにか物思うような間のとり方、しかしすぐヴィルトゥオーゾが顔を出す。軽やかに、みごとに音のつぶのそろったこの下降形のパッセージ、そしてストレット。中間部は劇的で、苦悩、ホロヴィッツが悲劇に向かったのに対し、何かに立ち向かう姿がみえる。ユージナは、あたかもソナタの終楽章のように力強く、リスト風。苦悩とあきらめの交錯する劇的な中間部では、なにもそこまで大きな音をださなくても、ピアノが壊れそう。しかし快演である。シューベルトの作品でなかったら、終わったとたんにブラボーの声が飛ぶだろう。しかしソフロニツキーと同様ここまで楽譜を無視していいものだろうか。

 シュナーベルの演奏は優美で伸びやかである。やや早めのテンポ、中間部もそのままぐいぐい押してくる。しかし今までとは雰囲気をかえて。苦悩とかあきらめとかいったものとは違う全く別の世界を創り出している。音色の変化もみごとである。最後にデムスの演奏なのだが、巨匠たちの演奏を聴いた後ではなんともつまらない。テンポはゆっくりめで、楽譜に忠実なのはいいのだが、劇的盛り上がりにとぼしく、中間部はいつも同じ雰囲気に聴こえてしまうし、何と言うかぐっとくる所がない。全編さみしさだけで、聴いた後、こちらがさみしくなってしまう。

 続く... H.Kudo



Recording 1950

Op.90-3

Op.90-4




Maria Usina

Mono

Op.90-3

Op.90-4




Tchaikovsky-Concervatrie
Rec.1960 Live

Op.90-3

Op.90-4




Recording 1968

Op.90-3

Op.90-4




Piano Boesendorfer
Mozartzaal,Konzarthaus,Vienna
January 1990

Op.90-3

Op.90-4





Rec.December 1925

Op.90-4